小さなカフェの窓際の席で、佐々木春香は外を眺めていた。
ガラスを流れる雨粒が、街の景色をゆっくりと滲ませる。
約束の時間を十五分過ぎても、彼はまだ来なかった。
「今日も、来ないのかな……」
春香はため息をつきながら、スマホの画面を見つめる。
新着メッセージはない。
時計の針が動くたびに、心のどこかで期待している自分が嫌になる。
高校二年の夏の日、彼――中村翔太と初めて出会った。
美術部の先輩だった彼は、いつも筆を持ち、静かにキャンバスに向かっていた。
話すのは苦手なようで、春香が何か話しかけても、短い言葉で返すだけだった。
それでも、彼の描く風景画には不思議な温もりがあり、春香はいつしか彼に惹かれていった。
ある雨の日、翔太は珍しく自分から話しかけてきた。
「雨の日って、好き?」
春香は少し考えて、「うん、好きかも」と答えた。
翔太は静かに微笑み、「俺も。雨の日にしか見えない景色があるから」と呟いた。
その日から、雨の日には決まって二人でカフェに寄るようになった。
窓の外の雨を眺めながら、他愛のない話をする時間が好きだった。
でも、卒業と同時に翔太は遠くの美大へ進学し、自然と連絡も減った。
そして、一年前の春、彼から「会いたい」と連絡が来たのだった。
「来週の日曜、カフェで待ってる」
それが、彼の最後のメッセージだった。
約束の日も雨が降っていた。
でも翔太は来なかった。
メッセージを送っても、電話をかけても、返事はなかった。
それから、雨の日になると春香はこのカフェに来るようになった。
いつか彼が現れるのではないかという淡い期待を抱きながら。
ふと、隣の席に座っていた老婦人が話しかけてきた。
「あなた、誰かを待っているの?」
「……はい。でも、多分もう来ない人です」
老婦人は静かに微笑み、「昔、私もそんなふうに待っていたことがあるのよ」と言った。
「その人、来ましたか?」
老婦人は小さく首を振る。
「でもね、不思議と待つ時間は苦しくなかったの。大切な人と過ごした記憶が、そばにいてくれる気がしたから」
春香は窓の外の雨を見た。
翔太が言っていた「雨の日にしか見えない景色」が、少しだけわかった気がした。
(おかしいな、今日はいつもより空が明るく見える)
雨粒がガラスを伝い落ちるその向こうに、翔太の笑顔が見えた気がした。