その町には、長い間愛され続けている小さな洋菓子店があった。
店の名は「ラ・メモワール」。
年老いたパティシエのアルベールが、心を込めて作るお菓子はどれも絶品だったが、特に人気があったのは「ウエハース・ド・メモワール」という名のウエハースだった。
そのウエハースには、不思議な言い伝えがあった。
「食べた者は大切な記憶を一つ取り戻すことができる」というのだ。
もちろん、迷信のような話であり、誰も本気にはしていなかった。
しかし、アルベールは誰よりもその言い伝えを信じていた。
なぜなら、そのウエハースは彼が亡き妻との思い出を胸に作り続けてきたものだったからだ。
アルベールの妻、マリーはとても優しい人だった。
二人で店を開いた頃は、貧しいながらも笑顔の絶えない日々だった。
しかし、ある日マリーは病に倒れ、静かに息を引き取った。
アルベールは悲しみに暮れながらも、マリーとの思い出を忘れたくない一心で、彼女が大好きだったウエハースを作り続けたのだ。
ある日、若い女性が店を訪れた。
彼女はどこか寂しげな表情を浮かべていた。
「この町に来るのは初めてなんです。でも、なぜかここに来なければならない気がして……」と彼女は言った。
アルベールは微笑みながら、ウエハースを一枚差し出した。
「どうぞ、召し上がってください」
女性は一口かじった瞬間、目を見開いた。
「あれ……私、この味を知っています。小さい頃、おばあちゃんと一緒に食べたことがある……」彼女は涙をこぼしながら語った。「ずっと忘れていたんです。でも、この味を食べた瞬間、思い出しました」
アルベールは優しく微笑んだ。
「それはきっと、大切な記憶だったのでしょうね」
それからもウエハースは人々の記憶を優しく呼び起こし続けた。
そしてアルベール自身も、毎日ウエハースを作るたびに、マリーと過ごした温かな日々を思い出すのだった。
やがてアルベールは静かにこの世を去ったが、店は若い弟子が引き継ぎ、ウエハース・ド・メモワールは変わらず作り続けられた。
今でも誰かがそのウエハースを口にするたび、忘れかけていた大切な記憶がそっと心に蘇るという。