小さな町の外れに、古びたクレープ屋があった。
店の名前は「ラ・ペタル」。
フランス語で「花びら」という意味だが、町の人々はいつしか「花びらのクレープ屋さん」と呼ぶようになった。
店主は物静かな老婦人マダム・エレーヌ。
彼女の作るクレープは薄く、柔らかく、まるで本物の花びらのようにふわりと口の中で溶けると評判だった。
エレーヌがこの町に店を開いたのは、今から三十年前のことだ。
かつてはパリの小さなカフェで働いていたが、ある日、ひとりの青年と恋に落ちた。
青年は旅人で、各地を巡りながら、そこでしか出会えない味や風景を愛する男だった。
彼がエレーヌに言った。
「君のクレープは、どんな高級料理より、僕の心に響くよ」。
その言葉を胸に、エレーヌは彼の故郷だったこの町にやってきたのだ。
しかし、青年の姿はそこにはなかった。
すでに遠い国へ旅立っていたという。
エレーヌは彼を待ちながら、この町でクレープを焼き続けた。
最初は町の子どもたちが物珍しさに集まり、そのうち家族連れや恋人たちが「幸せの花びらクレープ」を求めるようになった。
ある日、エレーヌの店にひとりの少女が訪れた。
学校帰りらしく、大きなリュックを背負っている。
少女はメニューも見ずに言った。
「いちごとクリームのクレープください」。
エレーヌはくすりと笑い、「それが一番人気よ」と手際よくクレープを焼き始めた。
バターの香ばしい香りが広がり、少女はじっとクレープが焼ける様子を見つめていた。
焼き上がったクレープに、ふわふわの生クリームと甘酸っぱいイチゴを乗せ、そっと折りたたむ。
最後に花びらのようにそっと粉砂糖を振りかけると、少女の目がきらきらと輝いた。
「わぁ、きれい…」
少女はクレープを大事そうに両手で包み、一口かじる。
口いっぱいに広がる幸せの味に、思わず目を細める。
「おばあちゃん、なんでこんなに美味しいの?」
エレーヌは少し考えてから答えた。
「それはね、このクレープには物語があるからよ」
「物語?」
「そう。私が若い頃、大好きな人に教えてもらったの。美味しいものには、その人の想いが溶け込んでいるんですって。その人がどんな景色を見て、どんな風を感じて、どんな人に会ったか。そういう全部がね、花びらみたいに重なって、クレープになるのよ」
少女はクレープを見つめ、もう一口かじる。
優しい甘さの中に、どこか切ない香りがした。
「おばあちゃんの物語も入ってる?」
「もちろんよ。あなたが食べてくれたクレープには、私の旅の思い出も、恋の思い出も、町の人たちとの日々も、全部入ってるの」
少女は目を輝かせて言った。
「私も、そんなクレープ作れるかな?」
「きっと作れるわ。だって、あなたにもこれからたくさんの物語ができるもの」
少女はクレープを食べ終えると、「ごちそうさま!」と大きな声で言って店を出ていった。
その背中を見送りながら、エレーヌは静かに目を閉じる。
店の隅に飾られた古い写真。
そこには若き日のエレーヌと、旅人だった彼の笑顔が並んでいる。
エレーヌのクレープに込めた想いは、これからも花びらのように、誰かの心に舞い降りるだろう。