エルダは幼い頃から小麦畑が好きだった。
それは、ただの風景ではなく、彼女にとって特別な場所だった。
春になれば新芽が顔を出し、初夏には青く波打つように揺れ、やがて黄金色の海へと変わる。
空に向かって真っ直ぐ伸びる一本一本が、まるでエルダの心を映しているように思えた。
エルダの家は村外れにあり、裏庭から小麦畑へ続く細い道があった。
そこを歩くたびに、裸足の足裏に伝わる土の温かさ、時折吹き抜ける風の優しさがエルダを包み込んだ。
畑にしゃがみ込み、耳を澄ますと、小麦が風に揺れる音がざわざわとささやき、エルダはいつまでもそこにいたくなるのだった。
幼い頃、エルダは母の膝に座りながら、よく小麦畑の話を聞いた。
「この小麦はね、私たちの祖母も、祖母の母も、そのまた母も育ててきたんだよ。この畑には、みんなの時間が染み込んでいるんだよ。」そう言って母は、エルダの髪をやさしく撫でた。
エルダが十歳になった年の春、母は病に倒れた。
それでも母は、畑を気にかけ続けた。
布団の中から、窓越しに小麦の様子を見つめる姿がエルダには忘れられない。
母の目はいつも穏やかだった。
母が息を引き取ったのは、麦の穂が黄金に輝く六月の朝だった。
エルダは母の遺した麦の種を握りしめ、涙をこぼしながら畑に立った。
その年の収穫を終え、次の春に種を蒔くとき、エルダは母が話してくれた言葉を思い出した。
「小麦はね、土と空と人の想いがなければ育たないんだよ。」
それから何年も経った。
エルダは村で唯一の小麦農家になった。
村の人々は、彼女の作る小麦がどこよりも香り高く、美味しいと言ってくれた。
エルダはいつも早朝に畑へ向かう。
まだ霧が残る時間帯、小麦の葉に朝露がきらめく光景を見ると、胸がいっぱいになる。
何か大きなものに守られているような、見えないものに抱きしめられているような感覚がそこにはあった。
ある日、村の子どもたちがエルダに尋ねた。
「どうしてエルダさんは、毎日毎日、小麦畑にいるの?」
エルダは少し考えたあと、ふっと微笑んで答えた。
「小麦畑はね、生きてるんだよ。私たちが生きているのと同じように、毎日呼吸して、風を感じて、太陽を浴びてる。私はその声を聞きたいの。どんなに小さなささやきでも、見逃したくないんだよ。」
子どもたちは不思議そうにうなずいた。
でも、翌日も翌々日も、子どもたちはエルダの後ろをついてきた。
エルダは小麦の穂を優しく撫でながら、畑の端から端まで見て歩く。
子どもたちは最初は飽きていたけれど、そのうち、麦の香りや土の匂いを好きになっていった。
秋、村のお祭りでエルダの小麦を使ったパンが振る舞われた。
ふわりと広がる香ばしい香りが村じゅうに漂い、人々はエルダに「ありがとう」と声をかけた。
エルダは照れくさそうに笑って、「小麦のおかげだよ」と答えた。
夜、収穫を終えた畑に一人立つエルダは、月の光に照らされる小麦の切り株を見つめながら、小さくつぶやく。
「お母さん、今年もありがとう。」
風が吹く。麦のざわめきが、まるで返事のように響いた。
エルダはずっと、小麦畑が好きだった。
そしてきっと、これからも。
小麦と共に生き、小麦に守られ、小麦に見送られる。
それが、エルダの人生だった。