高橋隼人(たかはし・はやと)は、35歳の会社員だ。
職業はごく普通の事務職だが、隼人には誰にも言えないほど深いこだわりがあった。
それは「照明」だ。
家の照明、光の角度、色温度、光の質感——それら全てに、隼人は異常とも言えるほどの情熱を注いでいた。
子どもの頃から、暗い部屋が怖かったわけではない。
それどころか、光に満ちた部屋も苦手だった。
蛍光灯の無機質な白い光は、彼にはまるで病院の手術室のように感じられた。
反対に、薄暗い白熱灯のオレンジ色の光には、胸がざわつくような不安を覚えた。
光は、単なる明るさではなく「空間の記憶」そのものだった。
初めて自分の部屋を持った中学生の頃、隼人は自分の部屋の照明に手を加えた。
天井のシーリングライトを外し、デスクライトと間接照明だけで生活してみた。
その部屋は驚くほど落ち着いた。
光が直接目に入らないだけで、世界の見え方が変わることに驚いた。
それ以来、隼人にとって「光をデザインすること」は、自分を守るための術になった。
大学に進学し、一人暮らしを始めると、そのこだわりはさらに加速した。
安いワンルームでも、隼人の部屋には三種類以上の照明器具が設置された。
天井照明は使わず、フロアランプ、壁掛けライト、ベッドサイドの小さなランプ。
光の強さや角度、色温度をミリ単位で調整することで、部屋の空気が変わる感覚を楽しんだ。
特に、光が壁や天井に反射して生まれる陰影に、隼人は魅了された。
光は影を生み、影が空間の奥行きを作る。
その陰影の表情を追求することが、隼人にとって何よりの楽しみだった。
社会人になってからも、そのこだわりは変わらなかった。
むしろ収入が増えた分、こだわりは深化した。
仕事帰りにインテリアショップや照明専門店を巡るのが日課になり、休日にはLED電球のスペック表を眺めながら、光の演出プランを練る。
一般的な住宅には必要のない調光器を取り付け、スマート照明を導入し、光の色や強さをスマホで操作できる環境を整えた。
リビングの一角には、光の実験スペースまで作った。
白い壁に様々な光を当て、反射する色や影を観察する。
その姿は、まるで光の研究者のようだった。
そんな隼人にも、一つの忘れられない記憶がある。
大学時代、付き合っていた恋人の奈緒だ。
奈緒は明るく、陽の光がよく似合う女性だった。
初めて隼人の部屋に来たとき、「なんだか落ち着くけど、暗いね」と笑った。
そのとき隼人は、自分の光の世界が誰かに伝わることの嬉しさと、伝わらないことの寂しさを同時に感じた。
奈緒と過ごした日々の中で、隼人は初めて「誰かのための光」を考えるようになった。
奈緒が好きな暖かい光と、隼人が落ち着く柔らかい光。
それらをどう共存させるか、二人で照明を選びながら、時には意見がぶつかることもあった。
でもその度に、隼人は光の奥深さを知った。
光は、誰かの心に寄り添うものでもあるのだと。
結局、奈緒とは別れてしまったが、隼人の照明への愛は消えることはなかった。
むしろ「誰かのための光」を探す旅は、それ以降隼人のライフワークになった。
自宅の照明を変えるたびに、そこに住む自分だけでなく、未来の誰かが安心できる光を模索する。
明るすぎず、暗すぎず、ただそこにいるだけで心がほどける光を。
最近、隼人は照明デザインの勉強を始めた。
仕事を続けながら、夜間講座に通い、光の歴史や設計技術を学んでいる。
いつか、自分の家だけでなく、誰かの家や空間に「安心できる光」を届ける仕事がしたいと思っている。
それはきっと、奈緒への未練でもあり、光に救われ続けてきた自分自身への恩返しでもあるのだろう。
夜のリビング。
隼人はソファに座り、壁に映る光と影のグラデーションを眺める。
その表情は日々微妙に変わる。
まるで自分の心のように。
光と影に寄り添いながら、隼人は今日も「光に生きる」自分を確かめるのだった。