あの日から、犬の姿が頭から離れない。
くしゃっとした白い毛並み、黒豆みたいな鼻、そしてちぎれそうなくらいに振られる短い尻尾。
十年前に旅立った愛犬コロは、私にとって最初で最後の家族だった。
東京の会社を辞め、実家のある小さな町に戻ったのは、コロが亡くなった年だった。
きっかけは、会社で開かれた「ペットの健康を考える」というセミナー。
講師が投げかけた言葉に、私は深くうなずいた。
「あなたの愛犬が、毎日口にするものを本当に知っていますか?」
忙しさにかまけて、ドッグフードをただ与えるだけだった自分に気づいたとき、後悔が胸を突いた。
コロは、手作りおやつが大好きだった。
特にサツマイモのクッキーは、私が台所に立つだけで、鼻をくんくん鳴らして待っていた。
「これからは、愛犬のための特別なおやつを作る仕事をしよう」
そう決めて、私はこの町に戻ってきた。
最初に作ったのは、コロが好きだったサツマイモクッキー。
地元の農家さんから無農薬のサツマイモを取り寄せ、米粉を使い、卵や砂糖は一切使わない。
犬の体に負担をかけず、素材そのものを味わえるように工夫した。
焼き上がりの甘い香りに包まれながら、コロの笑顔が浮かぶ。
「美味しい?」と空に問いかけると、ふわりと尻尾が揺れるような気がした。
口コミで広がり、近所の犬好きが少しずつ買いに来るようになった。
「うちの子、お腹が弱いんですけど、このおやつなら安心して食べられるみたいで」
「アレルギーがあって、市販のものは心配で。でも、これなら大丈夫」
そんな声を聞くたびに、私の手は次のおやつ作りへと動き出した。
小麦粉の代わりに米粉、卵の代わりに豆乳、甘さはサツマイモやカボチャの自然な甘みだけ。
獣医師やペット栄養管理士とも相談しながら、犬それぞれの体質や年齢に合わせたレシピを作る。
シニア犬には、歯に負担のかからないやわらかいクッキー。
アレルギー持ちの子には、シンプルな米粉ビスケット。
運動量の多い元気な子には、タンパク質豊富な鹿肉ジャーキー。
作業場の壁には、これまでに出会った犬たちの写真がずらりと並んでいる。
「マルチーズのルナちゃんは、お腹がデリケートだから乳製品なしで」
「柴犬のタロウくんは、お肉が好きだから砂肝をオーブンでじっくり焼こう」
それぞれの顔を思い浮かべながら、一つひとつ丁寧に焼き上げる。
どのおやつにも、名前のないレシピがある。
「きみのためのレシピ」だ。
ある日、常連の女性が涙ぐみながら訪れた。
「今日でうちの子、16歳の誕生日なんです。でももう食欲がなくて……最後に、大好きなおやつを少しだけ食べさせてあげたくて」
私は胸がぎゅっと痛くなった。
冷凍庫にストックしていた、彼女の愛犬専用のやわらかさつまいもボーロ。
小さくちぎって口元に運べるよう、指でほろほろ崩れるくらいの柔らかさ。
「お誕生日おめでとう」
そう声をかけて渡すと、彼女は深く頭を下げた。
「あなたのおやつがあったから、ここまで元気に生きてこられたんです。ありがとう」
犬のおやつは、ただの食べ物じゃない。
それは、飼い主が愛犬に贈る「愛のかたち」だ。
「きみのために作ったんだよ」という気持ちが、伝わるように。
どんな子にも、幸せな時間を届けられるように。
夜、店を閉めると、私は小さなサツマイモクッキーを一つ手に取る。
窓の外には、満天の星。
「コロ、食べてる?」
答えはないけれど、胸の奥にぽっと温かいものが灯る。
犬たちと飼い主さんの幸せな時間を、これからもずっと紡いでいこう。
それが、私にできる小さな恩返しだから。