バット職人・天野源三郎の物語

面白い

天野源三郎(あまの げんざぶろう)は、齢七十を超える老職人であった。
彼の作るバットは、日本のプロ野球界のみならず、大リーグの選手たちからも絶賛され、「天野のバットを握れば、打球が飛ぶ」とまで言われていた。
だが、そのバット作りの道は決して平坦ではなかった。

源三郎は、岐阜県の山深い村に生まれた。
彼の家は代々木工職人であり、父もまた腕の良い職人だった。
幼いころから木に触れて育ち、木の香りとともに成長した。
父は厳しく、源三郎が何かを作るたびに、「木の声を聞け」と繰り返し言った。

「木の声?」

幼い源三郎には、その意味がわからなかった。
だが、父は言った。

「木には命がある。一本一本の木がどんな風に育ち、どんな風に生きてきたか。それを感じ取れる者だけが、本当に良い道具を作れるんだ」

この言葉は、後に彼の人生の指針となる。

源三郎は、十代のころから父の元で修行を始めた。
しかし、父が得意とするのは家具作りであり、バット職人ではなかった。
それでも源三郎は、野球好きの友人のためにバットを作り始めた。
最初はただの木の棒だったが、何度も試行錯誤を繰り返し、次第にバランスの取れたバットを作るようになった。

やがて、村の少年野球チームの選手たちが源三郎のバットを使うようになった。
彼らは口々に、「打ちやすい!」と言った。
しかし、それだけでは彼の探求心は収まらなかった。

「もっと良いバットを作るには、どうしたらいいんだろう?」

彼は全国の木材を調べ、バットに適した木を探し求めた。
そして、ある日、アオダモという木に出会う。
しなやかで丈夫、打球の衝撃を和らげる特性を持つこの木こそ、最高のバット素材だった。

源三郎が三十代に入るころ、彼の作るバットは評判となり、ついにプロ野球選手の目に留まった。
ある日、一人のプロ野球選手が彼の工房を訪ねてきた。

「お前が天野源三郎か?」

訪れたのは、当時のスター選手・藤崎剛(ふじさき つよし)だった。
彼は新しいバットを探しており、源三郎のバットに興味を持ったのだ。

「俺に合うバットを作れるか?」

源三郎は藤崎のスイングをじっくり観察し、彼の打法に最適なバットを作り上げた。
藤崎は初めてそのバットを握った瞬間、何かを感じた。
そして試合で使ったその日、彼は豪快なホームランを放った。

「こいつはすげえ……!」

藤崎はすぐに源三郎のバットを正式に採用し、以降、多くのプロ選手が彼の工房を訪れるようになった。

年を重ねるごとに、源三郎はバット作りの技術を研ぎ澄ませた。
ただ単に木を削るのではなく、選手の打ち方、握り方、体格に合わせてミリ単位で調整するようになった。
彼は、「バットはただの道具ではない。選手の魂を宿す器だ」と語った。

しかし、時代は変わり、金属バットや新素材のバットが登場した。
木製バットの需要は減り、職人たちは次々と廃業していった。
それでも源三郎は諦めなかった。

「本物のバットが必要とされる日が必ず来る」

彼はただひたすら、最高の木を選び、最高の技術で削り続けた。

七十歳を迎えた年、源三郎の元にある若きスラッガーが訪れた。
彼の名は佐々木翔(ささき しょう)、将来を嘱望される天才打者だった。

「僕に、本物のバットを作ってください」

源三郎はうなずき、最後の力を振り絞って一本のバットを作り上げた。
そのバットは、彼が生涯をかけて培った技術の集大成だった。

その年、佐々木はそのバットを手に、プロ野球界を席巻した。
打球は軽やかに飛び、数々の記録を塗り替えた。
そして、ある試合の後、彼はこう語った。

「天野さんのバットは、生きている」

それを聞いた源三郎は、静かに目を閉じ、満足げに微笑んだ。

彼の手によって生まれたバットは、これからも選手たちの手で振られ続けることだろう。
彼の魂とともに——。