冬の寒さが厳しい京都の町で、片桐健一は小さな湯豆腐専門店「白雪庵」を営んでいた。
店は東山のふもと、観光地の喧騒から少し離れた静かな場所にあり、古くから地元の人々や知る人ぞ知る常連客に愛されていた。
健一が湯豆腐に魅了されたのは、幼い頃の思い出がきっかけだった。
彼の祖母は、寒い冬になると決まって湯豆腐を作ってくれた。
温かい湯気と、口の中でほどけるような豆腐の食感。
祖母の手で丁寧に出汁をとり、昆布の旨みをじっくり染み込ませたその味は、健一にとって何よりのご馳走だった。
祖母が亡くなった後も、その味を再現しようと、彼は何年も研究を重ねた。
そして、料理の道を志し、東京の料亭で修行を積んだ後、故郷である京都に戻り、「白雪庵」を開いた。
店の湯豆腐は、昆布と水のみで仕上げるシンプルなもの。
しかし、豆腐は毎朝職人から仕入れる特別なものを使い、出汁には厳選した北海道産の昆布を使用した。
薬味のネギや柚子胡椒、特製のぽん酢も、素材選びからこだわり抜いた。
店は派手な宣伝をすることもなく、静かに営業を続けていた。
それでも、湯豆腐を求める人々が自然と集まり、常連客の間で「ここの湯豆腐は格別だ」と評判になっていた。
ある日、一人の女性客が訪れた。
彼女はどこか寂しげな表情をしていたが、湯豆腐を一口食べると、驚いたように目を見開いた。
「この味……懐かしい。」
彼女はしばらく無言で豆腐を箸で崩し、ゆっくりと味わった。
食べ終えた後、ぽつりと話し始めた。
「私の祖母が作ってくれた湯豆腐と、すごく似てるんです。祖母が亡くなってから、ずっとあの味を探していたんですけど、どこにもなかった。でも、今日ここでやっと出会えました。」
健一は静かに頷いた。
祖母が作ってくれた湯豆腐が、自分だけでなく、誰かの心にも温もりを与えていることに、彼は嬉しさを覚えた。
それから彼女は何度も店に訪れるようになった。
初めは静かだったが、次第に健一との会話も増え、店の雰囲気を楽しむようになった。
健一は彼女が忙しい仕事の合間を縫って訪れていることを知り、湯豆腐をゆっくり楽しめるようにと、特別に時間を取るようになった。
やがて、二人は自然と親しくなり、互いの過去や思い出を語り合うようになった。
彼女の名前は佐々木優子。
東京で働いていたが、祖母の家があった京都に心惹かれ、度々訪れていたのだった。
春が訪れる頃、優子は「京都に移り住もうかと考えている」と健一に打ち明けた。
そして、ある日、彼女は「白雪庵」の暖簾をくぐると、小さな包みを差し出した。
「これ、祖母が大切にしていたぽん酢のレシピです。よかったら、健一さんの湯豆腐に使ってもらえませんか?」
健一は包みを丁寧に受け取り、優子に微笑んだ。
「ありがとう。大切に使わせてもらうよ。」
それからというもの、「白雪庵」の湯豆腐には、新たに優子の祖母のレシピを元にした特製ぽん酢が加わった。その味は、さらに多くの人々の心を温めるものとなった。
寒い冬の日、「白雪庵」の湯気は、今日も人々の心と体を優しく包み込んでいる。