陽が傾きかけた午後、田中誠一は静かに目を細めながら、目の前にそびえる古びたレンガ造りの建物を見つめていた。
そこは彼の祖父がかつて営んでいた製本工場だった。
***
誠一は幼い頃からレンガの建物に魅了されていた。
祖父の工場もそうだったし、通学路にあった古い図書館も、旅行先で見かけた洋館も、彼にとってはただの建造物ではなく、それぞれが長い時間を刻み続ける「生き物」のように思えた。
「レンガっていいよな」
子どもの頃、そう呟いた彼に、祖父は静かに頷いた。
「レンガはな、時間とともに味が出るんだよ。雨に打たれ、風にさらされ、日差しを浴びる。それでも崩れず、強くあり続ける。人の手で積み上げられたものが、何十年も、時には百年以上もそこに在り続けるんだ」
その言葉が、誠一の胸に深く刻まれていた。
***
しかし、時代の流れには逆らえなかった。
祖父が他界し、父が事業を畳んでからは、工場は使われることなく放置されていた。
経年劣化で一部の壁はひび割れ、蔦が絡まり、まるで眠るように静まり返っている。
ある日、市の再開発計画が発表され、その工場も取り壊しの対象になった。
「もう仕方がないよな」
父は寂しそうに呟いたが、誠一は納得できなかった。
祖父が語った「時間を刻む建物」が、こうも簡単に消えてしまうのか。
***
誠一は、思い切って役所へ足を運んだ。
「この建物を保存する方法はないでしょうか?」
担当者は怪訝な顔をしたが、誠一は粘り強く訴えた。
市の歴史を調べ、文化財保存の専門家に相談し、地元の人々に話を聞いた。
すると、意外なことが分かった。
祖父の工場は、戦前に建てられた数少ないレンガ造りの建物であり、当時の職人技術が色濃く残る貴重なものだったのだ。
この事実をもとに、誠一は保存運動を始めた。
地元の人々も協力し、署名活動を展開。
やがて、その声が市議会へと届いた。
***
数ヶ月後、市は計画を変更し、工場を「地域の歴史的建造物」として保存することを決定した。
改修工事が行われ、誠一はその中心的な役割を担った。
祖父が愛したレンガの壁は、再び命を吹き込まれた。
カフェ兼ギャラリーとして生まれ変わり、地域の人々が気軽に立ち寄れる場所となった。
誠一は、改装後の建物を眺めながらそっと呟いた。
「これで、祖父も喜んでくれるかな」
頬を撫でる風が、まるで答えるように優しく吹いた。