静かな町の一角にある、小さな喫茶店——「茶寮風音(さりょうかざね)」。
古い木造の建物に、鈴の音が心地よく響くガラス戸。
通りすがりでは気づきにくいその場所には、決まった時間に現れる常連客たちがいる。
その中でも、特に目立たない一人の男性がいた。
名前は松本航(まつもとわたる)。
30代半ばの彼は、いつも黒いスーツに身を包み、営業カバンを手にしている。
毎週金曜日の午後7時、必ずこの店を訪れ、烏龍茶を一杯注文する。
それも特定のブランド——台湾の阿里山烏龍茶だ。
「松本さん、今日も阿里山ですね。」
店主の中村さんが慣れた手つきで急須を用意する。
松本は軽くうなずき、カウンター席に腰を下ろした。
「ええ。これを飲むと、1週間の疲れが消える気がするんです。」
彼はそう言いながら、ふっと微笑んだ。
その表情には、どこか物寂しさが漂っている。
店主の中村は、それ以上は何も聞かない。
常連客との距離感を心得ているのだ。
しかし、この日は少し違った。
カウンターの隣に座った女性が、彼の烏龍茶をじっと見つめていた。
彼女は若い女性で、肩までの黒髪がよく似合う。
一見して特別な特徴はないが、その瞳には強い好奇心が宿っている。
「それ、何の烏龍茶ですか?」
唐突な質問に、松本は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに穏やかに答えた。
「阿里山烏龍茶ですよ。台湾の高山地帯で作られたもので、香りが特徴的なんです。」
「へえ…そんなにおいしいんですか?」
「ええ、一口飲んでみますか?」
松本が小さな湯呑みを差し出すと、女性は少し戸惑いながらも受け取った。
そして、そっと口をつける。
「あ…本当にいい香りですね。なんだか、草原にいるみたい。」
彼女の感想に松本は笑みを浮かべた。
「そうでしょう?それが阿里山の魅力なんです。」
二人の会話を静かに聞いていた中村は、密かに微笑んだ。
この店で新しい出会いが生まれる瞬間を見るのが好きだった。
それから、彼女——吉川真由(よしかわまゆ)は時折店を訪れるようになり、松本と会話を交わすようになった。
仕事の愚痴や趣味の話、そして烏龍茶への興味など、話題は尽きなかった。
ある日、真由は烏龍茶についてもっと知りたいと言い出した。
「松本さん、今度一緒に台湾に行きませんか?本場の阿里山烏龍茶を飲んでみたいんです。」
驚きながらも、松本は断らなかった。
彼の中で、茶葉に導かれるように少しずつ心が開かれていくのを感じていた。
旅行の日、二人は台湾の阿里山に足を運び、茶畑を見学した。
真由は土を手に取り、茶葉の匂いを嗅ぎながら、目を輝かせていた。
「松本さん、ここって本当に素敵ですね。来てよかった。」
「ええ…確かに。」
その時、松本は初めて気づいた。
彼にとって、烏龍茶はただの飲み物ではなく、心の拠り所であり、人と人をつなぐ媒介でもあったのだと。
帰国後、二人はますます親しくなり、ついに松本は真由に告白をした。
「もしよければ、これからも一緒に、いろんなお茶を楽しんでいきませんか?」
真由は少し照れながらもうなずいた。
「もちろんです。」
それからというもの、二人は週末ごとに新しい茶葉を試し、時には遠出して茶葉を探す旅に出るようになった。
烏龍茶が繋いだ縁は、二人にとって欠かせないものとなり、その香りは彼らの人生を豊かに彩るものとなったのだった。
茶寮風音のカウンター席には、今でも二人が並んで座り、阿里山烏龍茶を楽しむ姿が見られる。
その香りは、まるで新しい物語の始まりを予感させるかのように、店内を優しく包み込んでいる。