その男は、町のどこにいても一目で分かった。
黒い帽子、黒いシャツ、黒いコート、黒いズボン、そして黒いブーツ。
すべてが漆黒に染め上げられていた。
影と同化しているかのような彼の姿は、周囲の人々に畏怖と好奇の入り混じった感情を抱かせた。
彼の名はカイといった。
幼いころから、彼は黒という色に魅了されていた。
それは単なる好みの問題ではなかった。
彼にとって黒は安らぎであり、隠れ家であり、自分自身を表現する手段でもあった。
彼の母親が亡くなった日、彼は初めて黒い服を着た。
その時から、黒は彼の人生の象徴となった。
カイは孤独を好む男だった。
町外れの古い屋敷に住み、昼間はあまり人目に付かない場所を歩く。
夜になると、町の狭い路地や広場を静かに歩く姿が目撃されることがあった。
しかし、誰も彼に近づこうとはしなかった。
彼にはどこか近寄りがたい雰囲気があり、目を合わせると心の奥底まで見透かされるような感覚を覚えるという噂が広まっていた。
だが、カイは単なる孤独な男ではなかった。
彼には特殊な能力があった。それは、他人の”影”に触れることができる力だった。
影に触れることで、その人の感情や記憶を読み取ることができるのだ。
この能力は幼いころから自然に備わっていたものであり、彼自身もその力を完全には理解していなかった。
ある日、町に奇妙な事件が起こり始めた。
人々が突然、不可解な恐怖に襲われたり、過去の辛い記憶に苛まれたりするようになったのだ。町の住民たちは原因を突き止めようとしたが、手掛かりは何も見つからなかった。そんな中、カイは自分の能力を使って真相を探ることを決意した。
カイはまず、町の中心にある広場へ向かった。
そこは事件が頻繁に起きている場所だった。広場に立つと、彼は目を閉じ、自分の影を広げた。
影は周囲の影と交わり、一つの巨大な暗闇を作り出した。
その中で、カイは目に見えない記憶の断片を拾い上げていった。
やがて、一人の若い女性の姿が浮かび上がった。
彼女は涙を流しながら叫んでいた。
「私を忘れないで」と。
その声は悲しみと絶望に満ちていた。
カイはその影を追いかけ、町外れの廃墟に辿り着いた。
そこには、朽ちた家屋とともに、一本の大きな樹が立っていた。
その樹の根元には、小さな墓標があった。
カイはそっとその墓標に手を触れると、強烈な感情が彼の中に流れ込んできた。
それは生前の女性の記憶だった。
彼女はかつてこの町で暮らしていたが、不慮の事故で命を落とした。
そして、誰からもその存在を忘れ去られたことで、彼女の魂は安らぎを得ることができずにさまよっていたのだ。
カイは静かに立ち上がり、呟いた。
「安心して眠れ。忘れられたとしても、君の存在は確かにここにある。」
彼は黒いコートのポケットから一本の白い花を取り出し、墓標の前に置いた。
その瞬間、冷たい風が吹き抜け、周囲の闇が薄らいでいくのを感じた。
その後、町の奇妙な事件はぴたりと止まった。
カイは再び静かな生活に戻ったが、町の人々は彼に対する見方を少し変えた。
彼の黒い服装には、単なる奇抜さではなく、深い意味が込められているのではないかと感じ始めたのだ。
カイは依然として町の路地を歩き続ける。
その姿を見かけると、人々はそっと目を伏せ、彼の通り過ぎたあとに小さく頭を下げるようになった。
それは恐れではなく、敬意の表れだった。
彼は影を操る孤独な男。
しかし、その影の中には、忘れられた記憶や癒されない魂たちの声が潜んでいる。
そして彼はそれらに耳を傾け、静かに手を差し伸べるのだ。
黒い服装の男、カイ。
その存在は、町のどこかで今日も確かに息づいている。