麻衣(まい)は、小さな町の図書館で働く30歳の女性だった。
彼女は静かな生活を好み、毎朝決まった時間に起き、コーヒーを淹れてから出勤する日々を送っていた。
そんな彼女の日常に欠かせないのが、ハンドクリームだった。
麻衣がハンドクリームに惹かれるようになったのは、高校生のときだった。
母親が使っていたラベンダーの香りのクリームを分けてもらったのが最初だった。
その瞬間、手のひらに広がる柔らかな感触と、心を包み込むような香りに、彼女は言葉にできない癒しを感じた。
それから、麻衣のバッグの中にはいつもハンドクリームが一つ入っているようになった。
大学生になると、麻衣はハンドクリームを集めるようになった。
デパートの化粧品売り場で新作のクリームを試したり、旅行先で地元産のハンドクリームを買ったりするのが彼女の楽しみだった。
香りもテクスチャもブランドごとに違い、選ぶたびに新たな発見があった。
特にお気に入りは、フランス製のローズとバニラの香りのクリームで、これを塗るとまるで花園にいるような気分になれるのだ。
図書館では、彼女はいつも静かに働いていた。
本を整理し、貸し出し業務をこなし、時折訪れる子どもたちに絵本を読んであげる。
忙しい日でも、昼休みになると麻衣は自分のデスクに戻り、小さな瓶を取り出した。
それは、最近購入したカモミールの香りのハンドクリームだった。
手に少しだけクリームを取り、丁寧に塗り込む。
乾燥した手が潤い、香りがふわりと広がると、それまでの疲れが嘘のように和らいだ。
しかし、麻衣には一つ悩みがあった。
それは、自分の趣味を他人に話せないことだった。
周囲の人々にとって、ハンドクリームはただの実用品であり、彼女がそれに特別な思いを抱いていることを話しても、理解されないように思えた。
「大げさだね」と笑われるのが怖くて、麻衣はこの趣味を自分だけの秘密にしていた。
そんなある日、図書館で一人の青年が訪れた。彼の名前は亮(りょう)。いつも静かに本を読みながらノートに何かを書いている彼は、麻衣の目にとても印象的だった。ある日、亮が返却した本に挟まれていたメモを見つけた麻衣は驚いた。そこには、彼の好きな香りについて詩のような言葉が並んでいたのだ。
興味を持った麻衣は、その翌日、亮に声をかけた。
「このメモ、あなたのですよね?」と尋ねると、亮は少し恥ずかしそうに笑いながら「はい、そうです。香りについて考えるのが好きで…変ですか?」と答えた。
その言葉に麻衣は思わず胸が高鳴った。
彼もまた、香りに対して特別な思いを持つ人だったのだ。
その後、二人は香りについて語り合うようになった。
亮は香水やアロマオイルが好きで、麻衣のハンドクリームの話を興味深そうに聞いてくれた。
「実は僕も、手を使う仕事のあとにクリームを塗るのが習慣なんです」と亮が告白したとき、麻衣は初めて自分の趣味を理解してくれる人に出会えた気がした。
二人は少しずつ距離を縮めていき、麻衣は自分の趣味を誇れるようになった。
亮と一緒に香りのイベントに出かけたり、互いにおすすめのハンドクリームや香水をプレゼントし合ったりするのが二人の新しい日常になった。
麻衣のコレクションもますます増え、彼女の手元には、世界中の香りが集まる小さな宝箱のようになった。
ある日のこと。亮がふと彼女に言った。
「麻衣さんが塗るハンドクリームの香りは、どれも優しいですね。でも、僕が一番好きなのは、麻衣さん自身の香りですよ。」その一言に、麻衣は顔を赤らめながらも、これまで以上に手を大切にしようと思った。
ハンドクリームは、麻衣にとってただの保湿剤ではない。
それは彼女自身を癒し、彼女の人生に香りと彩りを与える魔法のアイテムだった。
そして今、それは大切な人との絆を深める鍵となったのだ。
香りが繋ぐ未来に、麻衣は胸を躍らせていた。