大学生の田中悠斗は、小説家を目指していた。
毎日キャンパスの片隅でノートに文字を書き連ね、夢見がちな眼差しで未来を思い描いていた。
ある日の午後、彼は古びた商店街の一角にある文房具店で、不思議なペンを見つけた。
それは棚の奥で埃をかぶっており、黒い軸には銀色の古代文字のような模様が刻まれている。
悠斗はそのペンに心を奪われた。
「これ、いくらですか?」悠斗が尋ねると、店主は一瞬ぎょっとした表情を見せた。
「あれは売り物じゃないんだ」
「でも、こんな奥に置いてあるなんてもったいないですよ。ぜひ使ってみたいんです」
店主は少しの間黙り込んだ後、ため息をついて言った。
「いいか、そのペンには気をつけるんだ。使い方を誤ると取り返しがつかなくなる」
警告を受けながらも、悠斗はそのペンを手に入れることができた。
家に帰ると早速ノートを広げ、試し書きを始めた。
そのペンの滑らかな書き心地に驚き、彼は夢中で文字を綴り続けた。
不思議なことに、頭の中で漠然としていたアイデアが明瞭になり、スムーズに文章が紡がれる感覚があった。
まるでペン自体が導いてくれているようだった。
それからというもの、悠斗の創作は加速していった。
そのペンで書き上げた短編小説を出版社に送ると、驚くほど早く返事が来た。
「連載を始めませんか」という話が持ち上がり、彼は歓喜した。
初めて自分の才能が認められた気がしたのだ。
それからというもの、彼はさらにペンを使って創作に没頭した。
しかし、次第に奇妙なことが起こり始めた。
ペンを使うとき、どこからか低い囁き声が聞こえてくるような気がするのだ。
それは夜中に特に顕著で、ペンを握る手が自分の意思ではなく何か別の力で動かされているような感覚さえあった。
さらに、書き終えた文章を読み返すと、記憶にないフレーズが紛れ込んでいることもあった。
それでもその内容があまりにも優れているため、彼は気にしないことにした。
やがて、彼の生活は次第に創作だけに占領されるようになった。
友人や家族との連絡を絶ち、睡眠や食事をも疎かにしてひたすら書き続けた。
ある夜、彼は夢を見た。
暗い部屋に閉じ込められた彼の前にはノートがあり、無理やり文字を書かされていた。
背後には形のない影がいて、低い声で囁いていた。
「もっと書け……お前の手で私の物語を完成させるのだ……」
目が覚めたとき、悠斗は汗まみれだった。
しかし、目の前のノートには記憶にない物語がびっしりと書かれていた。
怯えながらも、彼はペンを手放すことができなかった。
それを手放すことは、自分の才能を失うことを意味していたからだ。
数日後、悠斗は意を決して再びあの文房具店を訪ねた。
そして店主に真実を問いただした。
店主は渋い表情で語った。
「あのペンは呪われていると言われている。古代の儀式に使われ、持ち主の精神を少しずつ侵していくんだ。やがてその者を完全に支配し、命までも奪ってしまう」
その言葉を聞いても、悠斗は動揺しながらもペンを手放すことができなかった。
帰宅した彼は、自分の運命を受け入れたように再びペンを握った。
そしてノートに向かうと、自然と手が動き出した。
気が付くと彼は暗闇の中にいた。
目の前には黒い霧のようなものが集まり、不気味な声が響いた。
「よくやった。だが、お前の役目はここまでだ」
霧が悠斗の腕に触れると、ペンが彼の手から滑り落ちた。
次の瞬間、彼の意識は暗闇に飲み込まれた。
翌朝、彼の部屋には誰もいなかった。
ただ机の上にはペンと完成した原稿だけが残されていた。
その原稿の最後のページにはこう書かれていた。
「この物語は、書き手の魂を喰らって完結した。」
それ以来、彼の姿を見た者はいない。
そしてそのペンは、また次の持ち主を待っているのかもしれない。