深夜、玲子は仕事帰りに家へ向かう道を歩いていた。
周りはしんと静まり返り、街灯だけがぼんやりと照らす暗闇が広がっている。
家まであと数分というところで、ふと見慣れない細い路地が視界に入った。
「こんな道、あったっけ?」
玲子はいつも通る道筋だが、今夜はなぜかその路地が気になって仕方がない。
吸い寄せられるようにして路地に足を踏み入れると、空気が変わったような感覚が彼女を包んだ。
まるで時間と空間が歪んでいるかのようだ。
路地は細くて長いが、妙に奥が見えない。
進むにつれて、古びた木造の家がいくつか並んでいるのが見えてきた。
古い町並みがまるで幽霊のように姿を現し、まるで昭和時代の風景に飛び込んだかのようだった。
玲子は不思議に思いながらも、好奇心に負けて進んでいった。
歩いているうちに、彼女は自分の足音が響かなくなっていることに気づく。
辺りを見回しても、まるで音がすべて吸い込まれているかのように静まり返っている。
すると、ふいに一軒の家の窓が光り始め、中から薄暗い明かりが漏れ出てきた。
玲子は引き寄せられるようにして、その家の前まで歩いていった。
中をのぞくと、古風な家族の食卓が目に入る。
そこには年配の夫婦が座っており、子供たちが無邪気に笑いながら遊んでいる様子が見える。
しかし、彼らの姿はどこかぼやけており、まるで過去の記憶の中に存在しているかのようだった。
玲子がその様子を凝視していると、突然、年配の女性がゆっくりと彼女の方を振り向いた。
玲子はぞっとしながらも目をそらせず、女性の顔を見つめ続けた。
しかし、女性の顔はぼんやりとしていて、はっきりとした特徴が見えない。
玲子が立ちすくんでいると、女性が口を開き、静かな声で言った。
「おかえりなさい、玲子。」
玲子は背筋が凍りつくような感覚に襲われた。
その女性の声には、彼女が子供のころに知っていたような懐かしさがあったが、まったく知らない人のようでもある。
玲子は訳もわからずその場に立ち尽くし、どうすればいいのかわからなかった。
次の瞬間、周りの景色がゆっくりとぼやけ始め、まるで霧がかかるように見えなくなっていく。
玲子が慌てて目をこするうちに、路地も家も人影もすべて消え去っていた。
彼女は再び街灯に照らされた見慣れた道に立っていたが、先ほどの路地の入り口がどこにも見当たらない。
「何だったんだろう、今の…?」
玲子は混乱しつつも、その場を離れ、急いで家に向かうことにした。
家に到着してほっとしたのも束の間、玄関に鍵をかけようとした瞬間、ポケットの中に違和感を覚えた。
手を入れてみると、そこには見知らぬ鍵が入っていたのだ。
玲子は驚いて鍵を取り出し、よく見つめてみる。
その鍵は古びており、何か特別な印が彫られていた。
見覚えのないはずなのに、どこか懐かしさが感じられる。
そして、玲子はふと頭をよぎる疑念に息をのんだ。
あの路地で見た家族は、一体誰だったのか?
そして、あの「おかえりなさい」と呼びかけてきた声は?
玲子はその夜、なかなか眠れなかった。
翌朝、再びその路地を探しに行ったが、いくら探しても見つからなかった。
そして彼女は気づいてしまう。
あの家族の食卓の上に飾られていた古い写真に、自分の幼いころの姿が映っていたことを…。
玲子はその鍵を捨てることもできず、今もそっと引き出しの中にしまっている。
それがどこへ続く鍵なのか、どんな意味があるのか、彼女には知るすべもない。
しかし、夜道を歩くたびに、あの路地のことが頭をよぎり、不気味な感覚が襲ってくるのだった。
そして、時折聞こえる「おかえりなさい」の声が、彼女の心の奥深くに刻まれている。