深い山々に囲まれた静寂な森の中、一人の男がぽつんと立っていた。
名は健太、40代半ばの会社員だった。
彼は都会での仕事に疲れ、何年も前から心の奥で抱えていた夢をついに実現させようとしていた。
それは、山奥での自給自足の生活だ。
健太はもともと自然が大好きだった。
子供の頃、家族と一緒に行った山でのキャンプや川遊び、冬の雪山でのスキー体験が、彼の心に深く刻まれていた。
しかし、成長するにつれ、社会の流れに飲み込まれ、大学進学、就職、結婚と、自然からどんどん遠ざかる生活を送っていた。
「いつか、自然の中で暮らしてみたい」と漠然と思い続けていたが、現実はそう簡単ではなかった。
都会での生活は便利だが、ストレスに満ちていた。
毎日の満員電車、次々と押し寄せる仕事、絶え間ないスマホの通知。
心のどこかで「これでいいのか?」と思いながらも、家族を養うためには働き続けるしかなかった。
しかし、健太はある日、大きな転機を迎える。
会社のリストラで突如、職を失ったのだ。
最初はショックだったが、それが彼にとってチャンスであることにすぐに気づいた。
「今だ!」とばかりに、健太はかねてからの夢を実現させる決意を固めた。
妻と子供たちは彼の決意を理解し、応援してくれた。
妻は「少し離れた場所に住んでも、いつでも会えるよ。健太が幸せなら、私たちも幸せだから」と微笑んだ。
子供たちも「お父さん、山で何か作ってくれたら送ってね!」と無邪気に言った。
そして、健太は山奥にある古い山小屋を借り、そこでの自給自足生活を始めた。
まずは生活の基盤となる住まいの整備からだ。
小屋は数年放置されており、修繕が必要だった。
彼は大工道具を持ち込み、屋根を修理し、風通しを良くするために窓を取り替えた。
山の中で一人作業するのは思った以上に体力を使うが、健太にとっては都会の喧騒から解放され、心地よい充実感を感じる時間だった。
次に、食料の確保だ。
彼はすでに自分で畑を作る準備をしていた。
近くの川の水を引き込み、土を耕し、野菜の種をまいた。
最初は試行錯誤の連続だった。
土が硬すぎたり、動物に作物を荒らされたり、収穫が思ったより少なかったりと、都会育ちの健太には厳しい現実が待っていた。
しかし、その度に本やインターネットで調べ、地元の農家と交流し、少しずつ自分のペースをつかんでいった。
さらに、健太は近くの森で採れるキノコや山菜、川で釣れる魚も自分の食卓に並べるようになった。
自然の恵みを感じながら食事をするたび、彼は「これが本当の幸せかもしれない」と感じるようになった。
また、彼は山小屋に太陽光発電を導入し、最低限の電力を確保した。
インターネットやスマホは最低限しか使わないようにし、必要な時だけ近くの町に出かけて補給物資を手に入れる。
便利さからは少し離れていたが、その代わりに得た静寂と自然のリズムは、健太にとってかけがえのないものとなっていた。
孤独を感じることもあったが、自然の中での一人の時間は心を落ち着け、日々の忙しさで忘れていた自分自身と向き合う機会を与えてくれた。
夜になると、空には満天の星が広がり、山の静けさが健太を包み込む。
そんな時、彼は遠くの都会に暮らす家族や友人たちのことを思い出し、時折メールで写真や手紙を送った。
妻と子供たちも時折山小屋を訪れ、家族で自然の中で過ごす時間を楽しむようになった。
自給自足の生活は決して簡単ではなかった。
天候に左右され、作物が育たない年もあるし、予期せぬトラブルもある。
しかし、健太はその度に乗り越え、山の中での生活にますます愛着を感じていった。
自然の恵みを受け、自らの手で作り上げたものに囲まれる生活。
それは、健太が都会では得られなかった真の満足感をもたらした。
「生きるために働くのではなく、働くこと自体が生きることなんだな」と、健太はよくつぶやいた。
彼はもう都会に戻るつもりはなかった。
山の中での自給自足の生活は、彼が思い描いていた以上に豊かで充実していたからだ。
そして、季節が巡るごとに、健太の畑には多くの作物が実り、山小屋はより住み心地の良い空間へと変わっていった。
彼はこれからも、山の中で自然と共に生きていく。
そんな静かな決意を胸に、今日もまた太陽の下で土を耕していた。