わらび餅の記憶

食べ物

幼い頃、田中静香は祖母の家で過ごす時間が何よりも好きだった。
夏になると、緑豊かな田舎町へ家族で帰省するのが恒例行事だった。
特に楽しみにしていたのが、祖母の作るわらび餅だった。

祖母の家は小さな庭が広がる古民家で、庭には大きな楓の木があり、その木陰でよく過ごしたものだ。
蝉の声が響き、風鈴が涼やかに鳴る中、静香は祖母のそばでわらび餅を作る手順を見つめるのが好きだった。
祖母の手は年老いていたが、わらび餅を練るその手は無駄のない動きで美しかった。

「わらび粉をゆっくりかき混ぜるんだよ。焦らずに、じっくりね。」

祖母の言葉はいつも優しかった。
わらび粉と水を混ぜ、熱を加えると、透明でぷるぷるとした生地が出来上がる。
静香はその姿に毎回感動していた。
わらび餅が冷やされ、きな粉をたっぷりとかけると、静香の夏はそれだけで満たされた。

しかし、静香が高校生になると、家族での帰省は減っていった。
受験勉強や友達との付き合いが忙しくなり、祖母の家に行く時間が次第に少なくなっていったのだ。
大学生になる頃には、祖母とも疎遠になっていた。

そんなある日、大学四年生の静香はふと祖母の家を思い出した。
ふと口にしたくなったのは、幼い頃に何度も食べたわらび餅だった。
大学生活の忙しさや就職活動の焦りで心が疲れ切っていた静香にとって、わらび餅は無意識に求める「心の安らぎ」だったのかもしれない。

「久しぶりに祖母に会いに行こう」

静香はそう決心し、週末に田舎へ向かうことにした。
久しぶりに訪れた祖母の家は、昔と変わらず懐かしい香りがした。
庭の楓の木はさらに大きくなっていた。
玄関を開けると、祖母は台所で静かに座っていた。
少し驚いた顔をした後、祖母は穏やかに笑った。

「静香、久しぶりだね。大きくなったね」

静香は何も言えずに祖母を抱きしめた。
温かい、その瞬間、幼い頃の記憶が一気に蘇った。
静香は涙をこらえながら、祖母の声を聞いた。

「わらび餅、作りたくなったのかい?」

祖母は静香の心を見透かしているかのように、優しく問いかけた。
静香は小さく頷いた。

二人は台所に立ち、昔と同じようにわらび餅を作り始めた。
静香は祖母の動きを見ながら、手伝いを始める。
久しぶりのわらび粉の感触、鍋の中で徐々に固まっていくその様子を見ていると、静香の心は不思議と落ち着いていった。
幼い頃に感じた安心感が胸に広がった。

「わらび餅ってね、心を込めて作ると、不思議と気持ちが落ち着くんだよ」

祖母の言葉は、その時の静香の気持ちにぴったりと重なった。
昔はただおいしいから好きだったわらび餅。
でも今は、わらび餅を通して祖母と繋がっているような感覚が静香を満たしていた。

出来上がったわらび餅を冷やし、きな粉をたっぷりとかける。
静香は一口食べて、思わず笑顔になった。
ぷるんとした食感、口の中でとろける甘さが懐かしかった。
まるで、あの夏の日々に戻ったかのようだった。

「おいしいよ、おばあちゃん」

静香がそう言うと、祖母は嬉しそうに微笑んだ。

「これからは、いつでも作れるように練習しておきなさい。わらび餅は、作るのも食べるのも、人を幸せにするからね」

その日、静香は祖母の家に一晩泊まり、たくさん話をした。
祖母の昔の話、家族のこと、そしてこれからの静香自身のこと。
わらび餅を作りながらの時間は、まるで長い間失っていた絆を再び結び直すような特別な時間だった。

翌朝、静香は祖母に見送られながら、都会へと戻った。
祖母に教わったわらび餅の作り方を忘れないように、静香は家に帰ると早速わらび粉を買って、自分でも作ってみた。
最初はうまくいかなくても、何度も繰り返すうちに、だんだんと祖母の味に近づいていった。

やがて静香は社会人になり、忙しい日々が続いたが、ふとした時にわらび餅を作ることで心をリセットすることができるようになった。
祖母の言葉通り、わらび餅は静香にとって特別な「安らぎ」の象徴となった。