コーヒーゼリーと母の記憶

食べ物

ある日、彼女は静かなカフェで一人、窓際の席に座っていた。
カフェの名前は「Cielo(シエロ)」、彼女がいつも訪れるお気に入りの場所だ。
店内には穏やかなジャズが流れ、外には秋の風が木々を揺らしていた。
彼女の目の前には、毎回必ず注文する一品、コーヒーゼリーが置かれている。
黒いガラスのように輝くゼリーが、ミルクの白さに少しずつ溶け込んでいくのを、彼女はじっと見つめていた。

彼女の名前は麻衣。
24歳のOLで、毎日の仕事に忙殺されながらも、こうしてカフェで過ごすひと時をとても大切にしていた。
特にコーヒーゼリーは、彼女にとって特別な存在だ。
単なるデザート以上の意味がある。
それは、彼女の幼い頃の思い出に深く結びついていた。

麻衣がまだ小学生だった頃、母親とよく近所の喫茶店に通っていた。
その店には、いつも特製のコーヒーゼリーがメニューに載っていて、麻衣はそれを食べるのが何よりも楽しみだった。
大人の味がする苦みのあるコーヒーゼリーに、たっぷりのクリームをかけて食べると、その対照的な甘さが口の中で溶け合い、まるで魔法のようだった。

「コーヒーは大人の飲み物だけど、これなら麻衣ちゃんも食べられるね」と母はいつも微笑んで言った。

幼い麻衣にとって、その一言は大人の世界に少し足を踏み入れる特別な瞬間だった。
母親との時間、そしてそのコーヒーゼリーは、彼女の中で今でも色あせることなく輝いている。

しかし、時が経つにつれて、麻衣の生活は変わり始めた。
中学生になると、忙しさや勉強で母親と過ごす時間は少なくなり、喫茶店に行くこともなくなった。
高校に進学してからは、さらに多くの課題と部活動が彼女を縛り、やがて母親は病に倒れた。

母の病気は思ったよりも進行が早く、麻衣が大学に入学するころには、もう母と会話することも少なくなっていた。
母の最期を迎えたとき、麻衣は自分の無力さを痛感し、長い間心にぽっかりと穴が空いたままだった。

それから数年が過ぎ、彼女はようやく社会人としての生活に慣れ、日々の仕事に追われる中で、ふと母との思い出がよみがえることが増えていった。
特に、あのコーヒーゼリーの味は、まるで母の温もりを感じさせるかのように彼女の心を包み込んだ。

そんなある日、麻衣は偶然にも「Cielo」というカフェを見つけた。
こぢんまりとした店で、外から見える雰囲気がどこか懐かしさを感じさせた。
ふと足を止め、店内に入ると、あの懐かしいメニューが目に飛び込んできた。
そこには「コーヒーゼリー」の文字があった。

「まだこんなところに、コーヒーゼリーを出す店があるんだ…」

麻衣は思わず微笑みながら、そのメニューを注文した。
店員が運んできたその一皿は、かつて母親と一緒に食べたものとは少し違うが、それでも十分に彼女を満足させるものだった。

初めて口に運んだ瞬間、あの頃の記憶が鮮明に蘇った。
母親との会話、笑顔、そしてその温もりが、彼女の胸の奥から溢れ出した。
涙がこぼれそうになるのを抑えつつ、麻衣は一口一口を噛みしめるように食べ進めた。

それ以来、麻衣はこのカフェに通うようになった。
特に疲れた日や、少し寂しい気持ちになったときには、決まってこのコーヒーゼリーを食べる。
ゼリーの苦味と甘いミルクの組み合わせが、彼女にとっては母との思い出を再確認させる特効薬のようだった。

今日も麻衣は、その特別な時間を過ごしていた。
仕事でのストレスや、日々の疲れが積み重なる中で、彼女は自分の心をリセットするためにこの場所に来るのだ。
目の前のコーヒーゼリーを一口すくい、口の中に運ぶと、心がほっと安らぐ。

「もう一度、母とこの味を分かち合えたら…」

そんな思いが心に浮かぶが、同時に、彼女は母がいつも自分を見守ってくれていることを感じていた。
だからこそ、今日もまたこうして、母との繋がりを感じながらコーヒーゼリーを食べる。

外の木々が秋風に揺れる音が微かに聞こえる。
麻衣はカフェの窓からその光景を眺めつつ、カップの底に残った少しのコーヒーゼリーを最後にすくい取った。

「また、来週もここに来よう」

そう心に決めて、彼女は席を立ち、静かにカフェを後にした。
母との思い出と共に、コーヒーゼリーの味はこれからも彼女を支え続けるだろう。